国際交流ファシリテーター20周年記念
トークセッション
「これまでの20年、これからの展望について」前半
これまでの20年を振り返って
イントロダクション
公益財団法人新潟県国際交流協会 廣瀬 勝利氏
それでは、20周年プログラム第一部、トークセッションを始めます。
冒頭のご挨拶でも申し上げました通り、
「国際交流ファシリテーター養成事業」は今年度で20周年を迎えます。
専任アドバイザーの皆様、そして本日は敬和学園大学の丸畠教授をお迎えし、
これまでの事業の振り返りと今後の展望についてお話しいただきます。
ここからの進行は、新潟国際情報大学の佐々木教授にお願いしております。
それでは佐々木教授、よろしくお願いいたします。
国際交流インストラクター事業の誕生とその軌跡
新潟国際情報大学 国際学部 教授 佐々木寛先生
皆さん、改めてこんにちは。
えっと、20年前ですから、この中にはまだ生まれてなかった方もいるかもしれませんね。
20年という節目ということで、今日はこれからの20年も含めて考えながら、
お話できればと思います。
で、例のごとくというか、私の特徴なんですけど、全く打ち合わせをしていません。
ぶっつけ本番です(笑)。
20年前をひも解くとですね、当時、国際交流協会の職員だった椿さんという方が、
ある日突然、私の研究室を訪ねてきたんです。
「相談に乗ってほしい」と。
どういう相談かというと、
「子どものための写真展をやるんだけど、学生さんをどうやったら巻き込めるのか?」
というものでした。
それなら「学生が写真を勉強して、来場者に説明をしたらどうですか?」
という話になって、
実際に学生が写真展の前で来場者に一人ひとり説明をし始めた
――それが最初のスタートになります。
一枚の写真をめぐって学生が説明し、会場の人とやり取りをする。
ここから“ファシリテーション”というアイディアが生まれました。
翌年もその流れで活動を続け、学生と双方向で対話しながら世界を認識していく、
そういう形ができてきた。
2007年ごろには、教育現場では「ファシリテーション」という技術がほとんど知られていない時期でした。
私はその時、「これはこれから最も重要なスキルになる」と思って、
学生と一緒に、最初はボランティアの形でやっていました。
広がるつながり
今日ここにいらっしゃる先生方は、出会った順番に並んでいるんですよ。
2007年に少し補助金をいただけるようになって、事業としてしっかりやろうということになりました。
その時に広島大学の長坂さん(教授)と一緒に進めることになったんですけれども、
長坂さんから「うちは教育学部がないから教育学の専門家がいない」と言われて。
それで上越教育大学の釜田先生にご指南をいただこう、
ということで釜田先生が最初に巻き込まれたということです。(笑)
それ以来、ずっといろんな形で支えていただいています。
次に声をかけたのは敬和学園大学。今日いらっしゃっている丸畠先生ですね。
最初は松本ますみ先生にお願いしました(松本先生はすでに退職されています)。
お気づきのように、声をかけた先生方は全員、個人的なつながりなんですよ。
「こういうことを一緒にやりませんか?」と、一人ずつ声をかけて広がっていったんです。
今では一番長く、丸畠先生が学生の指導から全体の事業のアドバイスまでしてくださっています。
その次にお願いしたのが新潟県立大学。ここにいらっしゃる黒田先生ですね。
今ではすごく偉くなられたんですが(笑)、
昔は一教授として、しかも私の大学院の先輩でもありました。
「黒田さん、これやってくれませんか?」とお願いしたら、
私の中の“ベスト・オブ・ベストの先輩”なので、
いつものように「ああ、じゃあやるよ」と快く引き受けてくださいました。
県立大学はね、教員が何もしないけど学生が全部やっちゃう(笑)という特徴があって、
どんどん広がっていきました。
そして新潟国際情報大学。ここにも立ってくださっている中原先生(当時学生)や宮本先生(当時学生)がいます。彼らは初期の国際交流ファシリテーターのメンバーです。
中原さんは新潟大学で教育学の博士号をとられ、宮本さんは上越教育大学で修士号を取られています。
その修士論文のテーマはなんと「国際交流インストラクター」。
当時、日本で唯一の論文じゃないかなと思います。
大きな転換点:専任教員の着任
そんな人のつながりの中でずっとやってきてですね。
国際情報大学の中でも、最初は「学生が授業するなんて何事だ」みたいな議論もありました。
でも、だんだんと浸透していって、ようやく本学でも専任の教員を雇うようにまでなりました。
それが今ここにいる山田先生です。山田先生は地域研究のご専門で、私にない視点――地域という観点から世界認識を深めてくれる存在です。ちょうど山田先生が来て10年。
つまりこの事業のちょうど半ばから関わっていただいています。
というわけで、私の思いを交えて紹介しましたけれども、ここからは順番にですね、
まずは20年を振り返って、記憶に残っていることや、気づき、良かったことなどを、
ざっくばらんにお話しいただきたいと思います。
釜田先生、お願いします。
20年間を振り返って ― 学校現場とともに歩んできた変化
上越教育大学大学院 特任教授 釜田 聡先生
はい。今ご紹介にあずかりました、釜田と申します。
2007年に声をかけていただいたんですが、佐々木先生のまさに“人間力”といいますか、その迫力に押されて、断る間もなく新潟まで通わせていただきました。
当時は本当に初歩的なところから始まりました。
皆さんからすると驚くかもしれませんが、「まず学校にどうやって入るのか」から議論しました。
服装はどうしたらいいのか、髪型や髪の色は大丈夫か、そういうところからスタートしました。
まさに学校という文化、マナーのようなところから勉強していった時期です。
SDGsの登場と教育現場の変化
その後、順調にこの事業が走り出して、少しずつ内容面で変化が出てきました。
皆さんご存じの通り、2015年にSDGsが国連で採択されて、世界中に広がっていきました。
その頃から、学生の皆さんのワークショップのテーマも、国際理解教育を扱ったものから「SDGsと子どもたちをどうつなげるか」へと関心が移っていったと思います。
地域とSDGs、そして国際理解教育。
それが交わるところで、学生たちがワークショップをつくっていた時期でした。
さらにそれを後押しするように、学校教育の変化もありました。
2017年ごろの学習指導要領の改訂です。
その時「アクティブラーニング」という言葉が流行しました。
佐々木先生たちはもうその前から、ワークショップという形で進めていましたけれども、ちょっと遅れまして、学校側も「アクティブにいこう」という流れになってきた。
学校が追いついてきた、という状況ですね。
まさにその時に、化学反応のようなものが起きていました。
子どもも先生も学んでいる
皆さんの先輩たちは、「どうやって(学校に)入っていったらいいんだろうか」ということを最初に悩みました。
でも、SDGsができたことで背中を押され、
学習指導要領の改訂がファシリテーター事業を加速度的に後押ししてくれました。
今年の皆さんのワークショップも聞かせてもらいましたが、
どれも皆さん自身の興味関心があり、短い時間の中で子どもたちの学びに寄り添いながら、子どもならではの視点で社会に興味を持ってもらうというような内容が多かったように思います。
子どもたちが「自分のこととして考える」学校教育では、まさにそこを大事にしているわけです。
たとえば小学生の子どもたちに、外国人や異文化に少しでも関心を持ってもらおう、
そして世界で起きていることを自分ごととして考えてもらおう、ということですね。
実は学校の先生方もそこに苦労しています。
だからこそ、皆さんが一日だけでも、短い時間かもしれないけど、
学校に行って、子どもたちに“ヒント”をプレゼントしてくれる。
先生たちも、子どもたち以上に、期待しています。若い皆さんが学校教育に新しい息吹を吹き込んでくれている――それが現場の実感です。
まだ20年ですが、一番勉強しているのは、皆さんかもしれないし、皆さんの先輩かもしれないけれど、それ以上に先生や子どもたちもしかすると先生方かもしれません。
さらに、子どもたちの口コミを通じて、
家庭や地域にも少しずつ浸透していっていることが分かってきました。
だから、どうか自信を持ってください。
皆さんの先輩たちが築いてきた“財産”、“スピリット”を引き継いで、これからもたくさんの学びを得てほしいと思います。
以上、20年間を振り返りながら、現在のことも少しお話しさせていただきました。
ありがとうございます。
学び合いの文化と大学の垣根を越えたつながり
敬和学園大学 人文学部国際文化学科 教授 丸畠宏太先生
すみません、ちょっと喉の調子が悪いのでマスクをしています。
でも菌をばらまくことはありませんので、ご心配なく(笑)。
敬和学園大学の丸畠です。
今年は実は、うちの学生メンバーがいなくなってしまったので、果たして参加していいものなのかどうか正直迷いました。
でも「トークセッションだけでも来てください」と言われまして、お話しさせていただきます。
出会いと「巻き込まれた」始まり
私はですね、先ほど佐々木先生からもお話があったように、
直接声をかけられたわけではないんです。
今お話を伺いながら、「あれはいつだったかな?」と計算していましたが、私が新潟に来たのが2008年。
その時にはすでにこの事業が始まっていました。
当時、松本ますみ先生が敬和学園大学で担当されていました。
松本先生は今は退職されていて、実は私の家のすぐ近くにお住まいなんです。
またご近所付き合いが始まっていて、それも面白いご縁ですよね。
松本先生が学内の別の業務で忙しくなって、ぽっと出の私に「丸畠さん、大丈夫!簡単だから!」と(笑)
嘘ばっかりって、今は思うんですが(笑)
なんか乗せられて、やり始めたのがきっかけです。
ですから、2010年から関わっています。
その意味では、一番長い方と言われて自分でも驚いています。
敬和自体も古株になったらしいですね。
正直言って、自分なりの抱負があったわけではありません。
流されるように任された、そんな感じでした。
あまり「いやです」と言える性格でもないので(笑)
やってきて気づけばここまで来てしまった。それが本音です。
でも惰性でやってきたわけではないんです。
嫌なことはうまく逃げる方なんですけど、逃げずにやってきたのは、ずいぶん色々と学ぶことがあったからかなあという気がします。
教えるでもなく、教わるでもなく、「学び合う」
一番印象に残っていて、いまだに続いていることは、大学を超えた教員同士の仲の良さですね。
雑談の延長で「うちに人が足りないから非常勤に来てくれよ」とか(笑)。
実際、私は新潟県立大学で十年ほど非常勤をやらせていただきました。
学生たちの間でも同じようなつながりがありました。
合同で実施する研修会でワークショップをアドリブでつくって、大学の垣根を越えて一緒にやる。
これが本当に良かったなと思うんですよ。
学校の垣根なんて、なにかを創る時には言っていられない。新潟という小さな地域だからこそ、
違う大学でも同じ時代に生きる「同じ大学生」としてつながっていける。
いいことやっているよなというのは、すごく感じました。
忘れられないことがあります。もう10年近く前になるかと思うのですが、佐々木先生と黒田先生と一緒に、(本プログラムの冬季の合同研修の一環で)有志の学生たちと泊まり込みで“聖籠のざぶーん”に行きました。
お酒を飲みながら議論したんですが、ただの無礼講ではないんですよ。
みんなが同じ方向を向いて、「このワークショップをやっていこう」という目標があった。
目標があって集まる人たちに、年齢も社会的地位も関係ないなというのをすごく実感しました。これが学校の授業や活動とは違うところだと思うんです。
教えるでもない、教わるでもなく、「学び合う」なんです。
これは児童・生徒との関係でも同じです。
知らず知らずのうちに、そうなっていると思います。
アクティブラーニングの先駆け
文部科学省が「アクティブラーニング」を言い始める前から、私たちは自然にそうなっていました。
座学と活動を組み合わせて進めていく。
文科省から上から言われることなんて、もう現場で実践しちゃっていたんですよね。
それがこの十年で一番印象に残っていることです。
だから、多少の山あり谷ありがあっても、やめる気はまったくありません。
もちろん、人数が集まらない年もあれば、やろうとしているのにうまくいかなくて崩壊寸前になった時もあります。でも、そういう色々な経験を乗り越えて今がある。
だから、古株の方たちは、ぜひそういう経験を伝えていってあげたらいいんじゃないかと思います。
――とりあえず、こんなところで。
地域に根ざした学びと学生同士の協働
公立大学法人新潟県立大学 副理事長 黒田俊郎先生
はい。今、丸畠さんが“ざぶーん”の話をしてくれましたけど、確かに何回か泊まり込みの合宿をしましたね。いろいろとためになったなと思います。
うちは(県立大は)「学生が中心で、教員は何もしない方がいい」と言われている大学なんですが(笑)
この20年間を振り返って、僕にとって一番大きかったのは――
大学の垣根を越えた協働
やっぱり学生同士が大学の枠を越えて、新潟という大きなコミュニティの中で一緒に活動できたこと。
それが一番の財産だと思っています。
うちのワークショップで人が足りなかったとき、
国際情報大学や新潟大学の学生が助っ人で来てくれた。
逆に他の大学で人数が足りないときには、うちの学生が行って一緒にやる。
そういう“横のつながり” いわゆるサポートやヘルプの関係があった。
それがとても印象的でした。
地域に根ざした教育の場:忘れられないワークショップの思い出
もうひとつ僕がすごく印象深いのは、地域との関わりです。
県立大学は“地域に根ざす”と言っていますが、実際大学は都市部にある。
でも新潟県というのはローカリティの複合体になっていて、非常に個性豊かですね。
地域に根差しているいろんな学校に、学生たちと一緒に行くことで、
新潟県のもっている教育の奥深さ、地域の歴史や誇りみたいなものを直に感じられました。
冬の寒い時期でも、大雪をものともせず、
守門のすぐそこの須原中学校へ行ったり、山形県境の山北の熊田(くまた)中学校に行ったり。
そこは“マタギ”の文化が残る地域なんです。
一番印象深いのは、魚沼の湯沢地区にあった三俣小学校でのワークショップです。
その学校は翌年の3月末で閉校になるという最後の年でした。
複式学級で、在校生も少なかった。
うちの学生の一人がその小学校の卒業生で、
「自分の母校でワークショップをやりたい」と先生にお願いして、
快く引き受けていただいたんです。
夏の終わりか秋の初めくらいに行って、なかなかいいワークショップで、
最後に、子どもたちが学校の校歌を歌ってくれたんです。
もうすぐなくなってしまう校歌を、お礼にアカペラで歌ってくれた。
あれはなかなか感動しましたね。
後ろでそれを見ていて、「子どもたちからメッセージを受け取る大学生たちは幸せだな」と思いました。
20年を支えてきたもの
大学の垣根を越えて学生たちが交流し、
さらに新潟県内各地のさまざまな小・中・高校生たちといろんな出会いがあったということ。
それが20年続いてきたというのは、やはり人と人の出会いのおかげかもしれません。
それが国際情報大学から始めていただいたこの活動の一番大きな価値かなという気がします。
とりあえず、そんなところで。
学生がエンジンとなって動かしてきた20年
佐々木先生
ありがとうございます。
なんか、期せずして、全く打ち合わせしてないのに(笑)
みんないい話だなと思って聞いていました。
今、丸畠さんもおっしゃいましたけど、
インターカレッジ(大学間)の人間関係から始まって、
いろんな人との関係が紡がれていく中で、
最終的にそれをバックアップしてくださったのが県の国際交流協会や教育委員会。
単なる大学間のネットワークだけじゃなくて、行政も一緒になって、
お仕事というよりも、これを“やるんだ”という非常に強い熱意で、
この活動をずっと支えてくださったと思っています。
掘り下げていくと、この事業を一番前に動かしてきたエンジンは、
やっぱりここにいらっしゃる学生たちです。
教員は「もうやめてもいいかな」なんて思う時もあるけど、
学生が面白がって、後輩を連れてきてくれたり、
涙を流しながら「やめたい」と言いつつまた戻ってきたり。
そういう“熱いエンジン”が、この事業を支えてきたんだと感じます。
それでは、山田先生。お願いします。
10年を振り返って ― 継承と挑戦のあいだで
新潟国際情報大学 国際学部 教授 山田裕史先生
はい、ありがとうございます。
私はこの中で一番関わりが短いので、あまり話せることは多くないのですが……
ちょうど10年前、2015年の9月に新潟国際情報大学に採用されました。
その前の月、8月にはこの「キックオフセレモニー」を見学に来ていて、
あれからもう10年経ったのかと思うと、本当にあっという間でした。
私は新潟市の出身で、高校卒業まで地元新潟で過ごしていました。
自分の子ども時代を振り返ると、こういう取り組みは当時まったくありませんでした。
だから、この事業が20年前にできたというのは、
“新潟県の国際化”という意味でも、すごく大きなことだと思います。
正直、うらやましいです。
自分が子どものころ、こうした事業があったらよかったのにと思います。
国際交流ファシリテーターの担当者ということで採用されたので、
なにか新しいことをやらなくては、さらに発展させなくてはというプレッシャーもありました。
この10年を振り返ると、特に大きな転機として、次の2つが挙げられます。
名称の変更:名実ともに「ファシリテーター」へ
一つは名称の変更です。
この事業が始まったときは、「国際交流インストラクター」という名前でした。
まだ「ファシリテーション」という言葉が、世間に浸透していなかった時期です。
でも実際に学生たちがやっていることは、
「インストラクト(指導)する」というより、まさにファシリテーションそのものでした。
そこで実態に合わせて2016年に「国際交流ファシリテーター」という名前に変えました。
名実ともにファシリテーターとしての活動が本格化した時期です。
コロナ禍での試行錯誤:オンライン・ファシリテーションへの挑戦
もうひとつは、コロナ禍におけるオンライン化への挑戦ですね。
これは本当に大変でした。
ファシリテーターの学生だけでなく、子どもたちもそれまで教室で
一緒に活動していたのが突然できなくなりました。
そして、そういう環境下で育って大学に進学してきた学生たちと共に、
どのように活動を続けていくのか。これは自分にとっても大きなチャレンジでした。
今ではオンラインでのファシリテーションは当たり前になりましたが、
最初の頃は、「PCの画面越しにどうやってワークショップをやるのか」と手探りの状態でした。
当時活動していた学生たちも、そして私たち教員も、本当に苦労しながら乗り越えてきたと思います。